赤岩寺の歴史

当寺は、神亀3︵726︶年に行基菩薩様が開創、赤岩山正法院法言寺︵あかいわさんしょうほういんほうげんじ︶と称し、天安元︵857︶年に弘法大師様の十大弟子の一人杲隣上人︵ごうりんしょうにん︶が中興し、高野山平等院の末寺となりました。近年の調査によって歴代住職に伝わる密教法具の金剛杵が平安時代のものと判明し、鎌倉時代には三河守護職安達盛永が源頼朝の命で建立した三河七御堂の一つに法言寺弥陀堂が挙げられ、一山十二坊を擁していたが、応仁の乱後衰微しました。

その後今川・戸田・徳川家等から庇護を受け、天文元︵1532︶年に今川家より寺領6貫の寄進があり、永禄11︵1568︶年に大垣城の城主戸田家より本堂再建と鎧兜・宝剣の寄進がありました。山内中腹の愛宕社は、吉田城歴代城主の祈願所となり、寺運は再び復興しました。

文化財として、国重要文化財の鎌倉時代の愛染明王坐像をはじめ、県重要文化財の平安時代の金剛杵等多くの佛像・佛画・佛具を安置しています。

赤岩寺の歴史

HISTORY

当寺は、神亀3(726)年に行基菩薩様が開創、赤岩山正法院法言寺(あかいわさんしょうほういんほうげんじ)と称し、天安元(857)年に弘法大師様の十大弟子の一人杲隣上人(ごうりんしょうにん)が中興し、高野山平等院の末寺となりました。近年の調査によって歴代住職に伝わる密教法具の金剛杵が平安時代のものと判明し、鎌倉時代には三河守護職安達盛永が源頼朝の命で建立した三河七御堂の一つに法言寺弥陀堂が挙げられ、一山十二坊を擁していたが、応仁の乱後衰微しました。

その後今川・戸田・徳川家等から庇護を受け、天文元(1532)年に今川家より寺領6貫の寄進があり、永禄11(1568)年に大垣城の城主戸田家より本堂再建と鎧兜・宝剣の寄進がありました。山内中腹の愛宕社は、吉田城歴代城主の祈願所となり、寺運は再び復興しました。

文化財として、国重要文化財の鎌倉時代の愛染明王坐像をはじめ、県重要文化財の平安時代の金剛杵等多くの佛像・佛画・佛具を安置しています。